わが道を歩んだ一生
生い立ちから林長時代、その後は自然保全に力を注ぎ、
時には反骨精神も発揮しながら歩んだ生涯をまとめています。
略歴、受賞歴、役職などは「どろ亀さんについて」をご参照ください。
● 1914 【誕生】 |
● 1919 【5歳】 |
● 1934 【20歳】 |
● 1937 【23歳】 |
● 1939 【25歳】 |
● 1942 【28歳】 |
● 1952 【38歳】 |
● 1958 【44歳】 |
● 1974 【60歳】 |
● 1980 【66歳】 |
● 1986 【72歳】 |
● 1989 【75歳】 |
● 2002 【87歳】 |
● 1914(大正3)年 【0歳】
生年月日が分からない!?
どろ亀さんの生年月日の公的記録は1914(大正3)年2月6日。が、じつはこれは届け出た日で、この時代はよくあることだったらしい。「本当はこの1年数ヵ月前に秋田県六郷町(現・美郷町)で生まれた」と母ヒデさんから聞いていたものの、正確な年月日は誰も覚えていなかったので謎のまま。「1日でも早く生まれた者が先輩として胸を張れるのに…」と、本人はいたくご不満だった。
● 1919(大正8)年 【5歳】
お坊さんになるはずが
母方の実家は沢内村(現・岩手県西和賀町)の古刹、碧祥寺(へきしょうじ)で、次に男子が生まれたら住職となる定めだった。延清という名前も、350年以上前に草庵を建て初代住職になった多田弾正源延清から引き継いだもの。
碧祥寺では大事に育てられたが、ある日の真夜中、ゴロンゴロンと音がして「あれは魂が迷っている」という伯母の言葉に「おっかなくなって、夜道のなか家に逃げ帰ってしまった」。
● 1934(昭和9)年 【20歳】
旧制弘前高校理科甲類を一年留年して卒業
どろ亀さんは父、菊治さんが代診医として勤めていた山奥の鉱山にあった私立の小学校から、岩手県立黒沢尻中学校(現・北上市黒沢尻北高校)を受験、補欠入学となった。3年の後期に猛勉強して競争率10倍の弘前高等学校に進学したものの、「どろ亀さん、こう見えてスポーツマンだったんだよ。いろんなスポーツをやったけど一番はスキーだな。直滑降にジャンプにと選手だった」。
スキーに熱中して落第、それが糧に
で、夢中になり過ぎたのと「天敵の数学にやられて」あえなく落第。この時、同じ失敗を繰り返さなければいいと父から言われたことは、どろ亀さんのモットーのひとつになり「落第は得難い経験だった。失敗にへこたれない力強いバネになった」。
● 1937(昭和12)年 【23歳】
東京帝国大学農学部林学科(林政学専攻)卒業
富良野に来てやれやれ
卒業後は、先輩からの「スキーも登山もできるから」のひと声で東京帝国大学(現・東京大学)林学科に入学、アルバイトをしながら1937(昭和12)年に卒業。フィリピンのダバオにある、麻の栽培と木材の伐採を主な事業とする拓殖会社に就職した。が、暑さに弱いどろ亀さんはとたんに熱帯病にかかり、胃や腸を壊してやむなく帰国。翌年、北海道演習林に空きがあると聞いて、富良野にやって来たどろ亀さん。広大な大森林を前にして、ここで頑張ってみようと決心した。どろ亀さん24歳の春だった。
会計係から入札係として山へ
当時の北海道演習林は総面積約3万ヘクタール。林業労務者の確保のために林内に導入した入植者は約5千人もいた。小学校に病院、鉄工所、発電所、製材所、約50キロメートルに及ぶ森林軌道と大きな町だった。病み上がりのどろ亀さんが最初に命じられた仕事は、なんと会計の見習い。「いやぁどろ亀さんはソロバンはできない、字は下手くそ、帳簿は間違えてばかりで修正で真っ赤にするしで、見かねた上司が木を売る仕事にまわしてくれたんだよ」。
今度の仕事は森へ入って、民間に木材を売却する際の交渉兼入札係で、どろ亀さんは立木調査に森へ入る日が続いた。リュックを背負って森へ行き冬はスキーで山野をまわったことで、だんだん体力も回復していった。
● 1939(昭和14)年 【25歳】
突然のプロポーズに応えたウサギさん
演習林の近くに、北海道大学の農場があって、そこの管理一切を任されていたのが、渡米経験もあり真摯に仕事に打ち込む三浦竹次郎氏。そんな彼の生き方に惹かれていたどろ亀さんはある日、演習林事務員が彼の娘さんだと知る。「なんといっても記憶力抜群で、どんな苦労にも耐えてくれそうに思った」そうで、ある土曜日の午後、どろ亀さんは突然、富子さんに結婚を申し込んだ。
林長に仲人を頼んだものの、結納金を用意できなかったどろ亀さんは、思いついて「借用書 一金弐拾万円也 但し結納料として」とした。これで理解してもらえなかったら破談になっても仕方ないと思っていたら、三浦家から「借用書 一金壱拾万円也 但し袴料として」が戻ってきた。この前代未聞のやり取りのあと、1939(昭和14)年に無事、札幌神社(現・北海道神宮)で結婚式を挙げることができた。夫人は兎年生まれのこともあり、どろ亀さんはいつもウサギさんと呼んで「ウサギとカメだもの、相性もぴったりさ」と自慢げだった。
富子夫人は北海道開拓使に名を遺した庄内藩士、松本十郎の孫にあたる方で、戦中戦後にかけて次々に病にかかったどろ亀さんの健康管理をはじめ、その後のさまざまな苦労を支えともに歩んだ。札幌で長年にわたって保護司や民生委員を続けられ「どろ亀さんより超多忙なんだ」とよく言っていた。
● 1942(昭和17)年 【28歳】
東京帝国大学北海道演習林長になる
来る日も来る日も森に出かけ、亀のようにはいずりまわり泥だらけに。そんな彼の姿を見て山の仲間たちは酒好きの代名詞、亀から親しみを込めて”どろ亀林長”と呼ぶようになった。「さんは自分で付けたんだ、そのほうがバランスも良いしね」。
未来を託す大実験の始まり
戦時中の過伐で衰えた森林を復活させようと、神社山で実験を始めたのは1940(昭和15)年のことだった。「いろいろ実験したんだ、どろ亀さんなりにね。でもことごとく失敗さ。森からそっぽ向かれたんだ」。
いつも雨宿りしていたエゾマツさんから、どろ亀くんと声をかけられ、森づくりのヒントを教わったというエピソードは1953(昭和28)年のこと。
● 1952(昭和27)年 【38歳】
スウェーデンのリンキスト博士来演を契機に、欧米との交流が活発化
この大実験と並行するようにどろ亀さんが力を注いだのは、林木育種の研究だった。「カナダ、アメリカとかね、北欧諸国の大学や研究機関と、種や穂木とかやり取りしたんだ。ちょっとした国際交流さ。いや英語はからっきしだから、若いのにやってもらってさ」。
反骨精神を発揮する
当時の国有林は大面積皆伐、大規模人工林造成が中心だった。しかしどろ亀さんは長年の森歩きから、自然の力を最大限に引き出す林業が最も効率が良いと確信する。そして1953(昭和28)年、どろ亀さんは持ち前の反骨精神を発揮してグリーン・エージ(現・日本緑化センター発行)誌上に『国有林の経営批判―北海道を主題として―』を発表した。地方の大学助教授による国への挑戦である。
翌年、1954(昭和29)年にヨーロッパ、アメリカを視察して気づいたことがあった。「ヨーロッパの林床にはササがないんだ。北海道はどこもササだらけ、これじゃあ種が落ちてもササが邪魔して天然更新は困難だったわけさ」。
資料提供協力/一般財団法人日本緑化センター
● 1958(昭和33)年 【44歳】
林分施業法の構想を組み立て、実験林で試みる
やがて「反論だけではだめだ」と考え抜いた末に1958(昭和33)年、事業規模の2万ヘクタールを対象とした実験を開始する。小さな林分〔※1〕に分けて作業する、動物たちのことも考えて、森の生態を見極めて、森林を生き物として取り扱う。今なお続いている林分施業法である。
〔※1〕林分(りんぶん)=同じような構成状態の林で、ひとつの施業単位。この林分の集合体が森林。
森が先生、森こそ教室、研究室
どろ亀さんは退官前に、北海道開拓百年記念事業として、国道38号線沿いの峠に1968(昭和43)年に記念碑を建立した。『樹海』の二文字はどろ亀さんによる揮毫。「数百人もの方から賛同を得て建てたもので、ここから演習林の約半分を展望できる。ウサギさんに手本を書いてもらったが、ある夜にお酒をがっぱり飲んでエイヤッと一気に書いた」。
また、森づくりのあり方を映像で公開したいと科学映画『樹海』を2年半かかりで制作(昭和47年完成)、文部大臣賞など数々を受賞した。
どろ亀さんは「森こそが教室」と現場主義を貫き、教授でありながら一度も東京・本郷の教壇に立たなかった。
1971(昭和46)年「林分施業法―その考えと実践」を刊行。
(林分施業法pdfは無料でダウンロードができます。こちらから)
● 1974(昭和49)年 【60歳】
科学者の目を落として
1974(昭和49)年に退官後は札幌市内で暮らしながらも、富良野に通って樹海を歩きまわった。さまざまな美を見つけては驚いたり感心したり。「なぁ~んも考えたりしないで力を抜いてぼ~っと全体を眺めているとさ、ぴかっと焦点が合って美がみえてくるんだ。現役のあいだは演習林の運営に追われていたけど、退官したらさ、それまでの科学者の目では気づかなかった世界が見えてきたんだ」。
どろ亀さんの好奇心はとどまることなく、猫にマタタビの実験(近所の飼い猫を訪ねて実験)、オタマジャクシ(名前を付けてカエルになるまでを実験など)、ワラジムシ(能力や体力実験、ダンゴムシとの比較など)、ヤドリギ実験(厳寒期でも凍結しないことに着目)と暇がなかった。「ほかにも趣味と言うより生きがいだな、近所仲間と宇宙亀院をつくって囲碁を楽しんだよ」。
● 1980(昭和55)年 【66歳】
札幌市郊外の手稲に山小屋を建てる
特別許可を得て造られた念願の山小屋では、カケスやリス、キツネ、カメムシたちと仲間になり、多くの詩やエッセイがここで生まれた。
(詩集「どろ亀さん」を掲載中。こちらから)
1983(昭和58)年に第1回朝日森林文化賞受賞、1985(昭和60)年にはNHK特集『森と老人』が放映され、北海道演習林の素晴らしさやどろ亀さんのユニークな存在が広く一般に知られるようになった。
● 1986(昭和61)年 【72歳】
怒りのプラタナスからの警鐘
どろ亀さんは二度童子(にどわらし)になって森の生きものたちと過ごし、一杯やって碁の世界をさまよう暮らしをするはずだった。それが一変したのは1986(昭和61)年の秋、偶然、京都で怒りのプラタナスを見たから。「街路樹に多いプラタナスの樹にガードレールの鉄パイプが貫通していて、その痛々しさに涙がこぼれそうになった。そしてこれはおごれる現代文明に対する警鐘だと直感したんだ」。
脳天を殴られたようなショックを受け、どろ亀さんは同志たちと「緑維新 グリーン・ルネッサンス」活動に没頭する。「どろ亀さんはねぇ、ふだんはノロマな亀のようだが、これという目的がある時はひたすら突き進むんだ。森の仲間たちとの共作の詩集ね、あれも活動資金に充てるためだった」。
● 1989(平成元)年 【75歳】
森の心を伝えたい
どろ亀さんはますますテレビ出演や講演、森林視察、原稿依頼、著書の出版と多忙な日々を送ることになった。1989(平成元)年からは『山川草木(さんせんそうもく)を育てる集い』の創設者のひとりとして植樹ボランティアで全道各地をまわり、1992(平成4)年からは岩手県北上市の野外博物館『みちのく民俗村』の村長も加わった。この頃からどろ亀さんは宇宙人だと自称するようになる。
こうした活動の根底にあったのは「一人でも多くの人に森の心を伝えたかったからだよ」。かねてからどろ亀さんは「森の心」という言葉をよく口にしていた。それが何かは一人ひとりが感じるもので、すぐには分からなくてもいいのだと。
「人間は森がなくなっては生きていけない生きものだ。森が豊かであれば人の心も豊か、そして豊かな森とは、樹木も動物も昆虫も微生物も、あらゆるものが互いに役立ちながら生き続けていく小宇宙なんだ」。
● 2002(平成14)年 【87歳】
宇宙に還る
羊蹄山に虹をかけたい、シベリアの永久凍土の溶解や木の化石を見に行きたい、バオバブの樹の洞で一夜を過ごしてみたい…最期まで夢を語り、「あとは頼むじゃ」という言葉を遺して1月30日没。宇宙人になって北海道演習林を定宿に、気の向くままあっちこっちの森を訪ねている(に違いない)。
〔注〕この年譜は、髙橋延清氏自著を参考に作成しました。
なお写真は氏の書斎にあったものが中心で、撮影者を特定できず許可を得ないまま掲載しています。ご了承ください。またお心当たりのある方は「お問合せ」までご連絡くださいますようお願いいたします。